東京高等裁判所 昭和37年(う)1018号 判決
被告人 神蔵伸行
〔抄 録〕
原判決が、その理由において、被告人は新潟県両津市大字夷一番地新潟青果合資会社に雇われ貨物自動車の運転業務に従事している者であるが、昭和三五年一二月二二日得意先に配達すべく青果物を小型四輪貨物自動車に積み、これを運転して右会社を出発し、同県佐渡郡金井町大字千種八四番地の一食料品店「吾妻屋」こと本間金治郎方前県道に至り、同所の道路左側に西向に右自動車を止めて、二、三の品物を卸し、同日午後二時五〇分頃、右自動車の運転台左助手席に助手井上徳次を同乗させ、右自動車を操縦して同所を、畑野町方面に赴くべく、西方に向けて出発し、畑野町方面に向うには、同所より約三五米西方の三叉路を約一六〇度の鋭角に曲つて左折しなければならない関係上前記停車していた道路左側より斜に道路中央部よりやや右側に出て、そのまま西方に向けて時速約七粁で進行し、右三叉路の手前一三米位の辺りで左折を示す方向指示器を掲げ、右三叉路に差しかかり、自動車の方向を左に転じて進行しようとしたところ、折柄約五米後方を仲川由男が軽自動二輪車を運転して追従しており、当初は、被告人の自動車が道路左側を進行していたためその右側を追い越そうとしたが、被告人の自動車が前記のように斜に道路中央部よりやや右側に出て、そのまま西方に向けて進行したため、その左斜後方を追従して時速約一〇粁位で進行していたのであるが、そのことを被告人は知らなかつたのでそのまま進行を続け、当時、同所は道路の舖装工事中で、右仲川は右工事のため出来た道路の凹凸に注意をとられて、被告人の掲げた方向指示器に気がつかず、被告人の自動車の左側を通行してこれを追い越そうとして進行したため、被告人の運転する自動車が道路を横切り前面を塞ぎそうになつて始めてこれに気づき、左方に方向を変えると共にブレーキを踏んだが及ばず、被告人の自動車の左前輪フエンダーに、右仲川由男の運転する軽自動二輪車の前輪が接触し、右仲川がその場に転倒し、右事故によつて同人が加療約三カ月間を要する右膝関節骨折の傷害を負つた事実を認定した上、被告人が両津方面から佐渡総合病院の方面に向うには、本件事故現場の三叉路において前示のように約一六〇度の鋭角に左折しなければならず且つ当時道路舖装工事中で本件左曲り角辺の土が掘り起されていて凹凸があり土砂が置いてあつたため、道路交通法第三四条第一項には「左折するときは、あらかじめ、その前からできる限り道路の左側に寄り、かつ徐行しなければならない」と規定されてはいるが、本件の場合道路の左側に寄つて小曲りすることは困難であつて、被告人が道路中央やや右側に進行して左折したことは止むを得なかつたものというべく、又被告人は前記のとおり本件曲り角の約一三米手前で左折の方向指示器を掲げて進行し、時速約七粁の低速度で左折しようとしたのであり、この場合左側を追従する後続車は交叉点においては追越が禁止されており、前車が左折の合図をしたときは、後車は当該合図をした車両の進行を妨げてはならないのであるから被告人の掲げた方向指示器を見て、一旦停車し、被告人の自動車が左折して前面より去るのを確認した後進行を開始すべきであつて、被告人としては左側後続車に対する予見義務もなければ、その予見義務を果すために内的外的行為をする義務もなく、又結果を回避しなければならない義務もなかつたものである。従つて、被告人は前記のように方向指示器を掲げて低速度で左折しようとしたことにより法規上要求される注意義務を尽したものであつて、被告人が自ら又は助手をして左側に後続車の有無を確かめずにそのまま進行したとしても何等業務上の注意義務を怠つたことにはならない。なお又道路交通法施行令第二一条には道路交通法第五三条第一項の合図を行う時期を、左折する場合には当該交叉点の手前三〇米の地点に達したときからであると規定しているので、前記のように被告人が方向指示器を操作して掲げた時期は交叉点の手前一三米位の地点であつたことは右法規の違反ではあるが、その法規違反と被害者仲川由男の傷害との間には因果関係は認め難く、その法規違反の故をもつて被告人に注意義務違反ありということはできない。かように被告人には業務上の注意義務違反はなかつたのであるから業務上過失傷害罪の構成要件を充足しないものであるとして被告人に対し無罪の言渡をしたものであることは所論のとおりである。
これに対し、所論は、原判決は本件の場合刑法第二一一条前段所定の業務上必要な注意義務の解釈適用を誤つたものである。即ち、同条所定の注意義務は法令に定められた注意義務のほか、その業態に応じ条理上当然に要求せられる一切の注意義務を包含するものであり、自動車運転者のように特殊の危険業務に従事する者は、その業務の性質上単に法令の定める基準に従つて運転すれば足れりとするものではなく、その業務遂行にあたりいやしくも人の生命身体に危害を及ぼす虞のある行為は、法令の明文の有無にかかわらずこれを回避し、具体的事情に応じ危険の発生を未然に防止すべく臨機の措置を採るべき注意義務がある。本件事故発生の現場である道路は相当交通頻繁な場所であり、三叉路を約一六〇度の鋭角に曲つて左折しなければならない関係上道路の中央部より右側に出て左大曲りしようとしたため自車と道路左端との間に約三米の間隔が生ずるに至つたものであり、若し、後方から被告人の自動車に近接して来る直進車があつた場合必然的にその左側を追い抜いて直進するであろうことは交通常識上一般に予想されるところであるから、被告人としては、左折に際しては、単に方向指示器を上げるだけでなく、自ら又は助手をして左後方に近接する後続車の有無を確認させ、若しこれあるときは一旦停車して直進車に進路を譲り、後続車の直進をまつてしかる後左折するか、後続車の動静を確かめた後左折する等後続車に対する注意を払いながら操車する措置を講ずべきは条理上当然要求される注意義務である。然るに被告人は叙上の注意義務を怠り、判示三叉路を左折するにあたり、被告人自ら又は助手をして左後方に近接する後続車を確認せず、しかも三叉路の手前約一三米に至つてようやく左折の方向指示器を掲げ漫然左折したため自車の左前輪フエンダーを仲川由男の軽自動二輪車の前輪に接触するに至らしめて同人をその場に転倒させ加療約三カ月を要する傷害を負わせたものであつて、本件は被告人が業務上必要な注意義務を怠つたために発生したものであるにかかわらず、原判決がこれに反する判断をなし被告人に対し無罪の言渡をしたのは刑法第二一一条前段所定の業務上必要な注意義務の解釈適用を誤つたものであつて、その誤は判決に影響を及ぼすことが明らかであると主張するのである。
よつて案ずるに後記(証拠の標目)に掲げる各証拠を総合すれば、原判決がその理由において認定したとおり本件事故が発生し、被害者仲川由男が傷害を負つた事実が認められる。そこで、進んで本件において被告人に自動車運転者としての業務上必要な注意義務の懈怠があつたかどうかにつき審究するに、右認定のように被告人が本件自動車を運転して「吾妻屋」前の県道左側の停車位置より西方に向け出発し畑野町方面に向うには同所より約三五米西方の三叉路を約一六〇度の鋭角に左折しなければならなかつた関係上、道路の左側に寄つて小曲りに左折することは困難であつたことが認められるので被告人が前記停車位置より斜に道路中央部よりやや右側に出てそのまま西方に向けて右三叉路交叉点まで進行したことは止むを得なかつたものというべきであり、これをもつて違法ということはできない。次に被告人は右三叉路の手前一三米位の地点で左折の方向指示器を掲げた(この方向指示器を掲げたときの自動車の位置の点に関し、被告人及び井上徳次、本間金治等は被告人が吾妻屋前の停車地点を出発して間もなくあるいは五米位進んだ時であると供述し、又仲川由男は本件三叉路で左折を開始した時であると供述するが、いずれも措信し難い)上更に進行し三叉路の交叉点に入り自動車の方向を左に転じて時速約七粁で左折しようとしたのであるが、前示証拠により認められるように右県道は佐渡を両津市方面より相川町方面に向け東西に横断する主要幹線道路で相当交通の頻繁な場所であり、被告人は右三叉路を約一六〇度の鋭角に曲つて左折しなければならない関係上、自動車を運転して前記停車していた道路左側を出発すると同時に斜に道路中央部よりやや右側に出てそのまま西方に向け進行して三叉路交叉点に至つたため自車と道路左端との間に約三米の間隔が生ずるに至つたのであるから、このような情況の下においては後方から近接して来て被告人の自動車の左側を追い抜いて直進しようとする車があるであろうことは交通常識上一般に予想されるところであり、その場合後続車に留意することなく漫然左折しようとして自車を進行すれば、たとえ時速約七粁程度の低速度であつたとしても、後続車との接触衝突の危険を免れ難いことは当然であるといわなければならないから、被告人としては単に左折の方向指示器を掲げただけでなく、自ら又は助手をして左後方に近接する後続車の有無を確かめ、もし後続車の進行して来るものがあるときは、一旦停車し右後続車の通過を待つてしかる後に左折するとか、あるいは後続車の動静を十分確かめた後左折する等後続車との接触、衝突の事故の発生を未然に防止するための適切な措置を講ずべきであつて、それは自動車運転者の業務の性質から見て条理上当然要求される注意義務というべきであり、このことは一般に自動車運転者に対し期待し得ないものではない。そして本件のように自動車運転者が交叉点において大曲りに左折しなければならない場合における自車の左側を追抜こうとする後続直進車に対する注意義務について直接に法令に明示されてはいないけれども、法令は単に普通危険発生の虞ある行為を取締の対象とするに過ぎないのであるから、自動車運転者のように特殊の危険業務に従事する者は、その業務の性質上単に法令の定める基準に従つて運転すれば足れりとするものではなく、その業務遂行にあたりいやしくも他人の生命身体に危害を及ぼす虞のある行為は、法令の明文の有無にかかわらず、これを回避し、具体的事情に応じ、危険の発生を未然に防止すべく臨機の措置を採るべき注意義務が課せられているものといわなければならないのであつて、本件のような状況下においては被告人は自動車運転者として三叉路を左折する際単に方向指示器を掲げ、速度を低くするだけでなく自ら又は助手をして左後方に近接する後続車の有無を確かめ、もし後続車の進行して来るものがあるときは、一旦停車し右後続車の通過を待つてしかる後に進行を開始して左折するとか、あるいは後続車の動静を十分確かめた後左折する等後続車との接触衝突の事故を未然に防止するための適切な措置を講ずべき業務上の注意義務があつたものといわなければならない。しかるに前掲証拠によれば、被告人は不注意にも右義務を怠り前示措置に出なかつたことが認められ、この過失が本件事故、被害者負傷の原因をなしていることが認められるのである。もつとも前掲証拠によれば本件事故については被害者仲川由男においても被告人の自動車の方向指示器の発見がおくれた事実が認められ、これも本件事故発生の一因をなしているものであることは認められるのであるが、それあるが故に被告人の業務上過失傷害罪の成立に消長を来すものということはできないことは明らかである。これを要するに、本件事故は被告人の前記業務上過失と被害者の過失とが競合してこれが原因となつて発生したものと認められるのであつて、原審が被告人には業務上の注意義務違反がなかつたものとしたのは刑法第二一一条前段所定の業務上必要な注意義務の解釈適用を誤つたものというべく、その誤が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから論旨は理由があり原判決は破棄を免れない。
(長谷川 白河 小林)